2月29日 "Server"
サーバーの移動日。LHS事務局からのメールを何気なく読んでいたら、メールの止まるから別のアドレスを登録しろと来た、あわててヤフーメールを取得登録。新しいサーバーにはつながったものの、メールのホームページもアップできない。明日になればなんとかなるのかな。ISDNも止まるというのであわてた。。設定に多少とまどうが、なんとか移行完了。しかしブログは消滅...。
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2月28日 "Dream Again"
また夢を見た。
シンポジウムみたいなところで共同生活、アイリーンがいた。珍しくドレスアップして今日はパーティだという。外に行ってみると道路っぱたの空き地でみんなピンクの格好して並んでおそろい踊っている。もっと先に歩いて行くと今度はパリの大聖堂みたいな石造りの建物の前で、日本人の男の子が外人風に女装してなにやらパフォーマンス。どぉう?と聞かれる。恐ろしくエロチックだったな。そして部屋に戻ると電話が鳴っていた。もう一歩で取り損ね、切れてしまう。あわてて留守電を聞いたら、それはケイトからで、さんざんあなたを探していたけどいないのでしょうがないからもうみんなと出かけるという。またあわてて部屋を出て、ケイトがいるらしきほうへもどっていくととちゅうで満員の緑色したminiが来た。マックではなく、車のミニ、ジムのローパー・ミニだ。手を振ってその車を止めケイトに、私は今部屋に行って、着替えてくるからちょっと待っててというと、運転しているジムがあと十五分だけ待つという。私はそれじゃあと、あわてて宿舎らしきところに戻っていったが、そこは知らない土地、どこで曲がるか道に迷ってしまった。ふと気が付けばそこはなぜか病院のロビー風、看護婦さん達がいそいそと走り回っている。少し先に進んでここかなっと廊下を曲がり、部屋に入ると、私が行きたいところとは違った薄暗い部屋に大勢の人がじっといるではないか。しかも、みるからにアジア人だらけ、ちょっときれいなァ貧民窟風の薄暗い部屋になっていて。多くのアジア系おじさんやおばさんがいた、もちろん若者達も。僕が入っていくと、じろりと見られるが、そのうちに一人の若者がやってきてカタギリか、という。俺と顔見知りのやつがいたようだった。俺も知っていた風で、お互い再会に感激で握手したら、みんな寄ってきて、カタギリカタギリと言って次々握手する。カタギリ、カタギリと叫び唸るような合唱になった。後ろではもっと合唱の声が高まっていく。高まる声の響きの中で、僕は、ァァ、もうケイト達のところには間に合わないなあと思っていいるところで目が覚めるのだ。しかし合唱は神秘的でとても美しかった。
今日も一日マックの前に座ってなにやら仕事。たまったメールをほとんど片づけた。何通も来ていたマリアからのバーデン関連のメールにもほとんど返事を出した。ケイトからも書いてる先から次々に入ってきて、潮音のホームシックが心配だとか。
潮音にも一生懸命長いメールを書くが、すぐに短い返事が来て、でもやっぱりイギリスの学校はつまらないよとあっさり片づけられる。がっくり。まあ慣れるまで時間がかかるかも。
スカイプでケイト達と話をするが、スカイプ同士の通話はとても音質が悪い。三分に十秒くらいは音がとぎれとぎれになってしまう。skype outの方が有料ではあるが音質はいい(それでも一般電話よりずっと安い)。そうそう、きょうはminiを清掃梱包して発送。うまく商談がまとまればいいのだが。
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2月27日 "Dearm"
昼過ぎに目が覚める。すごい夢だった。
気仙沼のいとこの和彦の家の、下の港の近くあたりのところに家があってそこに私はいた。別荘かなんか、そこにケイト達とアンちゃん、それに誰か日本人の女の子の友達と泊まっていたら、風と雨、すごい嵐の夜となった。夜中に家がぐらぐらと揺れ、回転までしたような感じで、あれた一晩が過ぎ、朝、目が覚めると嵐は去って穏やかな一日。しかし窓の外を見ると、家ごと隣の家の屋上にのっかていた。みんなであわてておそるおそる家を出る、という夢だった。
私がとにかくまず家から脱出できるかどうかやってみるからと出口に向かう。そして、私が反対側に行くと家のバランスが変わって家が傾くと、とっさに思いついて、日本語で日本人の女の子にから注意して、と言ったら、いつものようにアンはむすっとして口をひん曲げて、英語で言いなさいとかなんとか言っていたのを覚えている?
この夢がどんな意味なのか私には分からない。
夜、DVDのコピーをしながら、あいた時間に村上春樹の「ノルウェーの森」を読み終えた。彼の小説を読んでいるとその静けさの中でいろいろな風景が見えてくる。話は以前短編で読んだ「蛍」だったのでむしろディテールに集中できたかもしれない。私の同じ頃の記憶。学生時代のこと、ヨーロッパでの生活のこと、そして今の生活のこと、不確かだった他人との関係や自分の位置、またそれに気がつかなかった自分も、すべて謝罪が受け入れられたような認めてもらったような一体感を覚えるのだ。私の原点はどこか、最後に今回のような感動をえたのはオーストリアだったかな。それは高原の中に立つ一本の木を見たときだったと思う。その松林のはずれのそこだけ広い草原の真ん中に立つその木はリンダブルンの丘の奥にあった。その木は風の強さを物語り、ひん曲がりそうになってしかし成長していた。そんなに大きな木ではに。美しい均整のとれた木でもない。そこには力と力のぶつかりがあったのだろう。あったのだろうとしか表現できないが、確かにその痕跡を物語り、私は心打たれた。夏の暑い日にも私は好きでよくそこに出かけた。
はじめてオルカニー島へバイクで旅行した際にみたイギリスの北辺の海岸線にも感動したな。そういえば。北の冬の波に何千年も削り取られたその岩くれだったとちには木も生えない。それが折り畳まれるように延々と続く。昨日、いやさっき切り取られたばかりようなその激しい切り口が続くその海岸線はやはり、大地と風の力のぶつかり合いの境界線である。どちらも譲ろうとしない。まさに境界線なのだ。そんな北の風景に私は心惹かれた。ぎりぎりのバランス、いやバランスではない。私は管理された温室培養に嘔吐する。なだらかな成熟に唾棄する。三陸のリアス生まれだからか。この心に染みついた風景を作品にしたいのだ。鬼気迫る、誰もが畏怖する。いつも私の床下でうなりうごめく神がいる。
大学二年生の時に、生まれて初めてシンポジウムというものに参加して、諏訪に行った。シンポジウムが終わっても生まれた初めて海外の作家達との共同製作という大仕事をしたあとでは、すぐに大学なんかには戻る気にならず、そのとき来ていた外国の作家達と一緒に一ヶ月ほどあちこちぶらぶらと山口周辺を旅行して知人田宅を泊まり歩いていた。カネがつきたので、ヒッチハイクで山口から京都に向かい、京大に通う高校時代の同級生の下宿に転がり込んで、彼の大学の学生会館の紹介で見つけた和菓子の小さな町工場にバイトに一週間ばかり通い、年の瀬も近くしこしこと金を作っていた。仕事は、一世紀前ぐらいの古い油だらけの一周10mぐらいのベルトコンベアーに7,8人とりついて、朝の7時頃から夜の8時頃まで延々と同じ作業を繰り返す。松葉のお菓子を焼いて袋詰めする作業だった。それぞれ、機械に生地を仕込んだり、出てきた製品を並べたりと、ほとんど機械の助手みたいな仕事だ。何か担当の仕事を一日中繰り返すのだ。私は焼く前の松葉型の生地に卵の黄身を塗って焼き色を出す仕事だったが、私は単純作業が得意らしく、筋が良いからずっと働かないかとも言われた(おだてられただけかもしれない)。どんどん昇進していくさなか、下宿に、親父から突然、電話が来た。あれひさしぶり、とか言ったらえらく怒鳴りつけられて、もういい加減に帰ってこいと言われ、渋々うちに帰った(あとから聞いたらシンポジウムが終わってしばらく経つのに音信不通のバカ息子を探すべく、関西方面の知人宅にすべて電話しまくって私を見つけたらしい)。
仙台の大学の寮に帰り、カビくさい自分の部屋に戻って、久しぶりに大学の講義やらアトリエ制作に戻ったが、すべてが色あせて見えて大学なんてばかばかしくなったので、教授に、もう自分は十分に勉強したからすぐに卒業させてくれないかと談判したが、君はまだ半人前だよと一笑に付されたことを覚えている。
そんな時、寮の部屋でぼやっと冬の風景を見ながら作品のアイディアを練っているときに、ふと自分の風景を作品化してみようと思いつき、波のシリーズのアイディアを思いついた。そのときは興奮して数日眠れず、そのスケッチを描いていたものだ。そして、その冬は福島の石切場に学校の道具を借りて持ち込み、山の作業小屋に泊まり込もうとしたが、親方が凍死されると困るからと、彼のうちにご厄介になったものだ。一ヶ月ほど制作に没頭した。そのとき作った作品はたいしたものではなかったが、後で考えると、山口の田辺氏も波の作品を作っていて、それを萩シンポジウムの帰りに見てきたことがあり、その印象が残っていて、いつの間にか自分の独創だと思いこんだのだろう。その作品は後に、宮城県美術館のレジデンスとして広瀬川河原での制作に転用してそこに残骸が残っているだろう。
しかし、自分の持っている風景が海であることを再認識し、波が持つ表現力は無限であることにいたたまれぬ喜びと興奮を感じ、人の影響を受けたことなどすっかり気がつかずに一人恍惚としていたことを覚えている
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2月25日 "From Sendai to Morioka"
昼近くに目が覚める。
両親と一緒に今のテレビで三浦がサイパンで逮捕されたというニュースか何かのんびり見ていたが、外に出てたばこを吸っていて一高に行ってみよと思いつき、吉田先生に電話したが、返事がない、どっちみち時間が中途半端なので仙台駅まで親父に送ってもらい、新幹線の時間までヨドバシカメラでこんど買おうと思っているmacbookをじっくりと見る。
ケイトのiMacにoffice2008を積んだので、こんど日本に来たときに使えるマシンがないので、新しくしようかなと思っているのだが、このiBook、見れば見るほど、ちゃちいので次第に買う気がなくなってきた。でも、また、オーストリアに行くときにはどうしてもラップトップがいるのだ。proでは高いし中途半端な大きさだし、いずれにしても金を作らないといけない。このままいまの中途半端なiBookG3を売りさばくか、それとも保険を使うか迷っている。なんにしてもminiの方は売ることにした。それにしても、会社の経理をちょっとまとめてみたが、その結果は惨憺たるもので今年度はまた赤字。どうしよう。macbookどころではないのだが。
盛岡で免許証の再交付を受け、ついでにパスポート新しいものに更新する手続きを取ってきた。ちょうど盛岡に来ていた岡田と落ち合って一緒に浮島に帰った。
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2月24日 "Back in Japan"
朝八時に予約したタクシーに乗って、みんな揃ってアパートを出発。エジンバラ空港へ行った。
空港のイタリアンカフェで朝食(やっとカプチーノにありついた)。みんなと別れてエジンバラを発つ。飛行機は快適だった。食事もよかった。映画を三本ほど見て二時間ほど寝る。
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2月23日 "Haircut and Inspirations"
潮音が、背中まで伸びた髪をそろそろ切りたいというので、私も一緒に行くことにした。
いつも行っている近所の床屋は予約で満杯だったので、ケイトが別の床屋を見つけてきた。それもとても近所の。
僕ら二人はケイトに連れられてここだというその店に行った。
その店を見て潮音も私もちょっとたじろいだ。狭い細長い部屋に散髪の古いいすがひとつ。髪を洗う洗面台がひとつに鏡がひとつ。壁中いたるところにロックやヒップホップスターの古い写真、昔の学校の写真やらが茶色くなった新聞記事が貼り付けてあった。
とりあえず、どあをあけてHello!と入っていくと、しばらくして奥のとビラから、ギャングのボスみたいな恰幅のいいおじさんが出てきた。レザーのチョッキに黒のズボンとシャツ。髪はぼさぼさでアタマの真ん中がはげ上がってひげを蓄えている。アインシュタインをロックンロールのギタリストにしたと想像してみればいい。
我々のぼさぼさアタマを見るなり、電話では分からなかったが君たちはひとり倍の15ポンドだよという。電話料金と同じで長ければ長いほど高いのさ、などと言う。いやなら別にやらなくてもいいよ、よく考えてくれ、時間はあるから。うさんくさいこときわまりない。
といいながらも、他の床屋は予約で一杯でいけないし、今更どこか新しく探すのも面倒だったから、我々は相談の上、まずは私から試してみることにしたー清水の舞台から飛び降りる覚悟で。
やってみたら、でも、さすが年輩、手つきも良いし、早い。悪くないかも。潮音の時は丁寧にカジュアルに仕上げてくれた。ケイトの話ではいつものところよりうまいし、センスがもっといい、ということで印象がよかったらしい。また行くといっていた。
夜はピザを食べる。食事がすんで、子どもたちはリビングに移った。あとは我々二人だけの時間。キッチンでオーストリアのシュペックとサラミをかじりながら、たばこを吸いながらスパークリングを飲んでいた。
しばらくおしゃべりをしていて、ふと彼女の言葉で突然目が覚めた。寝ていたわけではない。おたがいの作品についての話の時だった。インスピレーションとか格好良いものではなく、雨の中山道を延々と登ってきたところ、突然、雲が動いて太陽が顔を出し、一気に乾いた着物に着替えた爽快な軽さと、こんなエネルギーがどこにあったのかというくらい、身体の細胞が振動して目覚めを告げ、それを合図に心臓がすみずみまで一気に血液を送り始め、その鼓動を手のひらに握りしめたようだった。
実はこのところしばらく自分の仕事に身が入らなかった。いつからだろう、それすらも忘れてしまったほど、呆然とただ山道を細かい霧のような雨の中をただひたすら歩いていた気がする。僕はどこに向かっているんだろう?何しに来たんだっけ?しかし足下にはトラックがあるのだ、そこをトレースするようにスピードだけは落とさないように、そのみちを歩いてきたのだ。どのくらい歩いたのか分からない。でもあと何年か歩けば下り坂になってこの山を下り、森を抜けられるはずだ、と脳みそのはじっこが俺に語りかける。そんなとき、突然雨がやみ、霧が晴れてまわりの梢や鳥のさえずりが聞こえたのだ。
ケイトは続けた。自分のソースにもどれと。戻る、さかのぼるという言葉を聞いてはっとした。ああそうなんだ、いつも新しいアイディアだけをあてもなく探して回ることやバリエーションづくりに時間を費やすことで、どんどん、こねくり回した作品はその密度を失っていく。薄まっていく。なんでそんなあたりまえのことに気がつかなかったんだろう。戻っても良いんだと。止まったって良いんだ。いまこそ、戻るべきなのだ、自分がどこからスタートしたのかを思い出せ。今こそ。何が私に感動をもたらし、何が私を突き動かし、何がわたしを創作に向かわせているのか。そこを再確認しないと、歩き続ける意味を見失うのは当然だ。単に目先だけの新しいアイディアなんて意味ないのだ。
志気が高まらない。気持ちの準備が出来ない。とにかく仕事する中でそのサイクルの中で、車輪を回す中でその見えるものを次々拾っていけばいい、私の場合はそういう風なわけにはいかないのだ、私の場合。その車輪を動かす油を常に、あるいはタイミング良く注ぎこんでいかなければ、いくら何をやっても単に億劫なだけなのだ。回した車輪を倒さないようにするのに手一杯で、まわりの風景なんか見えやしない。
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2月22日 "ルカとカリーナ"
ケイトとFoyle彫刻コンペ申請書類をまとめる。パソコンでの作業は今回ケイトがほとんど一人でやった。私はつかず離れずで付き添い、ときおり、ひっかかったところでアドバイスを入れる。
よる、エミリが毎週一回のテッコンドウのクラスに行った。彼女は今のところ、アムネスティ・インターナショナルや、ブレイクダンスとこのテッコンドウのクラブに通っているのだ。彼女は日本での中学校時代とは見ちがえて、積極的にありとあらゆることに手を伸ばしている。エミリと一緒にCarinaとLucaがやってきた。ルカは潮音の同級生の女の子で、母のカリーナと、エミリやケイトと一緒にいっしょにテッコンドウのクラスに通っている。朝も都合が良ければ子どもたち三人で一緒に学校に通っている。
オーストリアのシュペックとサラミを食べながら、シュナプスとワインを飲む。カリーナは病院のデータ整理と薬理関係の研究をしている。とても聡明で知的な女性でウィットがあり話がとても、とても面白い。
きょう学校で子どもたちに麻薬の話があったらしく、そのことを子どもたちがしゃべっていたので、カリーナが詳しく説明をしてくれた。LSDやスピードは絶対手を出したらだめだし、マリファナやハシシは一度ぐらいは良いけれど、続けると、脳に損傷が起こることを、ハシの持ち方の説明みたいに、彼女らしくわかりやすくしかし恐ろしく正確に説明していたのだが、子どもたちは目を輝かせて、時折質問をしながら、ずっと聞いていた。
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2月21日 "Back to Edinburgh"
マリアに空港まで送ってもらい、十一時の飛行機でエジンバラに帰る。こどもたちへのおみやげにモーツアルト・クーゲルンやサラミなど買って帰る。
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2月20日 "Baden"
朝十時、ゾルタンとマリアとテルマの四人でまたバーデンへ。
市役所で今回の旅費の精算をしてもらってからー財布をなくしたので結局大損だなー、また四人で現場の見学と作品プランの打ち合わせ。
昼になる頃、いつものホイリゲンで庭園管理部長のゲラルドがやってきて、またうち合わせ。彼が直接の現場責任者なので、話が具体的に進む。滝と池の位置の決定、モニュメント設置の考え方、不要な樹木の選定と伐採、そして新たに敷地全体に流れる小川を作ることでほぼ、同意見、考えが一致した。
一息ついて、ゾルタンとテルマがバーデンの市内を散歩したいというので、みんなでちょっとぶらぶらする。プロジェクト同時期に開催するための展覧会場候補の、バーデン芸術家協会などを見学。
今回来れなかったスロバキアのペーター、ゾルタンそして私の個展を同時三カ所で開催し、ほかにプロジェクトの説明紹介展も併せて企画する。
Voeslauに帰ってマリアはくたびれたと言って、昼寝していたが、私は眠れなかったので、今日の話をプランとダイアグラムにまとめる。私が帰ったあとで、検討資料に使えるだろう。今回は関係者が多岐に渡っている。
夜はウィーンのトーマスのうちへマリアと行った。彼のうちはウィーンの南中心市街地にあり、今日ちょうどひとつプロジェクトを終えて帰ってきたところだった。彼は大変だったと言いながらも、疲れた様子もない。ハードディスクに持ってきた私の作品データの読みとりとCDへのコピー、ワインを飲みながら彼の仕事や私の仕事を語り合う。彼は金属の作家だが、今回のプロジェクトに是非参加してもらいたい。気が付くともう真夜中。
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2月19日 "To Austria"
朝、四時半起き、ひとりタクシーで空港へ、オーストリアへ発つ。
しかし、チェックインをすませ、朝食何食おうか、あちこちのレストランの前を行ったりきたりしてさんざん悩んだ末、ここだと、イタリアンカフェに入り、オレンジジュースにカプチーノのラージとチョコ・クロワッサン、地中海風スープなどを注文し、ほっと一息。しかしいざ支払いの時に、財布のないのに気付いた。
空港のチェックインカウンターからタクシー乗り場、レストラン街の床をくまなく見て回るがどこにも無い、あちこち探すがもう手遅れか、ケイトに電話してタクシー会社に連絡を取ってもらうが、私を運んだ運転手は早番だったのでもううちに帰って寝ているので連絡が付かない絡まってくれと言う。気が気ではない。私は学生時代以来財布をなくしたことがない。やっと連絡が取れたタクシーにも財布など無いという。仕方ないな。出てくる方がおかしいか。
一応、空港の落とし物係に届けを出して、そのまま一文無しのまま出発。まあ、乗り換え地のロンドンでカネを使わずにすんだ。本当はそこで、スコッチやら、お菓子やら、オーストリアのみんなにおみやげ買っていくつもりだった。エジンバラからロンドン行きの便では液体は買えないから。
ウィーン国際空港では予定通りマリアが迎えに来ていた。一服したのもつかの間、空港から直接、バーデンへ、プロジェクトの打ち合わせ。プロジェクト計画地に行き、ランドスケープアーキテクトのフランツと市の庭園管理副主任と改めて敷地の確認とプランの検討をする。
そのあと、いつものように近くのホイリゲンでワインを飲みながらまた打ち合わせする。夜はBad-Voeslauでスージーと再会、マリアの息子のtaroとそのフィンランド人の彼女や娘のMeralと何年かぶりで会った。あっというまに大きく成長している。ウィーンからマリアの弟のペーターもシュナプス持って来ていた、のちほどハンガリーからゾルタンも新しいガールフレンドtermaを連れてやって来る。ワイワイがやがやミッドナイトまで楽しく飲む。
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2月15日 "iMac!!!!"
いろいろ考えた末返品することに。
もともと欲しかった10.5Leopardではなく10.4Tigerだったし、電源の問題のほかにもいろいろと問題がありそうだし、だいたい高いカネ出して中古じゃわりが合わない。
朝イチでscotsysに電話をして返品したいといったらもっともだという感じで素直に受け入れてくれた。店に行く前にネットで他の店を調べたところPCworldという量販店に在庫があるという。しかし10.4なので安くするともいう。まあ新品な分だけでもいいかと思ってとりあえず品物の確保をお願いして、まずscotsysに返品し、その足でPCworldに行く。
これですね、と、そこで準備してあったのは、新品の10.5入りのimacだった。まったく言うことなし。さっそくカネを払い、まっすぐうちに持った帰りセットアップ。他にoffice2008とかケーブル、ヘッドセットなども買ってきた。キレイに起動。やっぱり新品はいい。他のソフトをインストールして、やっと仕事する体制になった。
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2月14日 "iMac!!"
2.4に決定と思って、Scotsysにでかけ、店の子と相談してやはり2.4に決め、いざ精算しようとしたら、実はもう在庫が無いという。
担当の子があわてて、倉庫の奥から再整備品というのを見つけて戻ってきた。光学ドライブの初期不良でもう交換済みだから、もう大丈夫というので、ちょっと負けてもらって購入。
喜んでうちへ持って帰る。われわれのショッピングのために運転してくれたゴードンのところへ子どもたちもつれて行って、昼のサンドイッチとチーズ、ワインををごちそうになる。
六時頃うちに帰って、さあと、iMacを箱から出し、起動してみたら、画面一杯、フォルダーやら、ファイルだらけ、前の持ち主のそのままなのだ。仕事のファイルや家族の写真、ホームビデまであった。しかもOSX10.4。あわてて担当の子に連絡し、来てもらいディスクの掃除と再インストールを四時間ほどかけてやってもらう。まあ俺でも出来るのだが、ついでに。しかし、すべて終わって、再起動して、みんなで見守る中、潮音がちょっと床に本を倒した振動で、電源が落ちた....。
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2月13日 "iMac!"
さっそく、iMacを見にScotsysに出かける。2.4Ghzがあるだけで2.0の在庫は無いらしい。とりあえずうちにかえってかんがえてみることにした。
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2月12日 "Edinburgh"
朝九時バスでホテル出発、九時半チェックイン、十二時成田離陸出発、夜十時過ぎエジンバラに到着。
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2月10日 "Mitsuo Rikimaru"
行こうか行くまいか迷ったが、結局、力丸先生の葬儀に行った。
先生の葬儀らしく、「会」形式で焼香するだけだが、会場は若い人年輩の人で溢れかえって、会場に入りきらない。ほとんど知った顔はいない。次は俺かな、みたいな白髪の紳士も多数いる。しかし、若い学生風も多い。日本の人口分布図を見ているようだ。
私は遅刻していったせいもあり、会場の外に急遽並べられたイスの祭壇が見えるところに座った。挨拶の声も遠くて聞こえない。別に聞こえなくても何を言っているのかだいたい想像は出来る。
焼香しながら純奈さんとイボに挨拶し、彼女は御膳を準備しているから食べていってと誘ってくれたが、丁寧に断って、そのまま、会場に来ていた百瀬氏をうちに送りながら浮島に帰る。しかしなんとなくまっすぐうちに帰る気分にはなれず、何となくぶらぶらしたかった。サンデーに行き、K'sデンキにいき、コンビニに入ったり、ダルマ薬局でマリアのためにモクサを買い、4号線ではなく、滝沢経由で、途中見つけた店に入り、ラーメンを食べて一服、やっと帰る。
きのう浮島に帰ってメールをチェックしていたら、日英協会の熊谷さんから力丸先生が亡くなったことを知らせるメールを受け取る。
彼女のメールのタイトル「訃報のお知らせ..」を見たとたん、あっ、力丸先生かなと、ぴんと来たのだ。死にそうな人は他にもいるけれど、なぜか先生だと直感した。
正月に電話したときに純奈さんが先生の具合が良くないと言っていたし。
力丸先生をなんと表現したらいいか私には分からない。
96年、岩手アートフェスティバルの準備委員会を立ち上げようとしていた。組織をとりまとめるのに誰が良いか模索しているとき、彼の名前が挙がり、佐藤一枝の紹介で、実行委員長をお願いしにケイトと一枝と三人で、岩手医大在任当時、彼の研究室に出かけて行った。結局、実行委員長は丁寧に辞退されて別の方にお願いしたのだが、企画について様々なアドバイスと彼のイギリスとの関わりなど二時間ほどお話ししたのが最初だった。多忙であったにもかかわらず、我々のような無頼漢を相手に話が尽きなかった。
とにかく面白い人だと思った。いや、彼を「面白い人」というだけでは、空を青いというようなもので物足りない、「すごい人」かな。いやこれも違うだろう。彼にはそんな泥臭さはない。「紳士」では、かれの恐るべき知識(欲)と趣味の広さは分からない。いつも日英協会の集まりの二次会で飲んでいると、「スコッチではなくスカッチだよ」を発音を直される。でも気取らない、押しつけがましさがない。興味とコレクションはおそるべきものがあり、しかし「趣味人」というほど、無責任ではなくきっちり系統的し、「文化人」ほど、いかがわしくないし、とても不思議な人だ。
私のボキャブラリーには無いカテゴリーの人であり、だから私にとって、消去法でしか表現出来ないタイプの人間であるかもしれない。
いつか、再生した石神の丘美術館のこけら落としに、アメリカの鋳造作家のイベント企画を提案したことがあったー屋外の自然の中に石を積んで炉を作り、地元の人たちのワークショップをしながら、鉄の鋳造をパフォーマンスとして行う、というもので、岩手には南部鉄器もあるので、何らかのコラボレーションが考えられそうだし、火を使うのでマスコミに見栄えも良いし、彼はアリゾナの芸大の教授なので生徒を巻き込んだり、またカネもあまりかからないし、シンポジウムとしてのアーティスト・イン・レジデンスの性格と彫刻公園の「地元密着型美術館」の新たな出発として、宣伝効果も大きいし、良いことずくめのようで私としてはとても気に入っていたプランだったが、あっさり芸術監督に却下された。理由も覚えていない。
そのプランを力丸先生に酒を飲みながら、俺良いプランだと思ったんだけどなあと、酒の肴に話していたら、先生は急に真顔で、それ、うちでやりたい、と言いだした。(力丸氏は当時、北上市の「鬼の館」の館長もしていた。館では将来「タタラ」の再現を計画しているらしく、現代アートと伝統技術の融合、絶好のチャンスだ、と言って目が輝きだした。鬼についての講釈はまた別のサイトに譲るし、企画は作家の都合で実現しなかったものの、当時、彼と話しながら、アートが「タタラ」と組み合わされることにより、東北の地方性や歴史のヒダ、グローバルな現代アートの意味など、確たる意味合いと方向性を持ち、歴史の中できっちり位置づけされ将来への問いかけを含め、単なるアートの思いつきが、文化としての足場を獲得して、世界がどんどんふくらんでいく。
それはまるで、河原で拾った何の変哲もない一個の石ころが、実は数万年前の石器のかけらでどこで誰がどのように制作してどんな生活の中で使用して、実は韓国とロシアの商業ルートを通じて交易していたが、そのせいでどことどこが戦争になり、何百人が亡くなった。いまそれはとても貴重なコレクションなのだよ、みたいな。
そのとき、だんだんと脳細胞が活気づいて(酒が入っていたせいか)、私も大いに興奮したのを鮮明に記憶している。
彼と飲む酒はいつもうまかった。
こちらが投げた何気ない言葉を何気ない顔でキャッチして、何気なく怪物を机の前に並べる人なのだ。
また、いつか彼に電話した折り、娘が帰ってきてるから、ちょっと代わるからと電話口に娘の純奈さんを出したことがあった。彼女はスイスのバレー団でプリマドンナととして活躍していたが、退団して振り付け師で夫のイボと帰国して、実家に戻っていた。私もヨーロッパでのことなどしばらく話をしたあと、また先生に代わって、これからは君たちの時代だから、よろしく、と言われたのを心強く感じたのを覚えている。
彼女たちとは、いつかなんかのアート・プロジェクトでコラボレーションしたいと思っているが、今のところプランはない。
南部さんも東京で忙しくあまり顔出さないし、日英協会に行く楽しみがまたひとつなくなった。
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2月8日 "Setting Moon Dance"
朝六時前に起床。七時過ぎの新幹線で東京入り。早く着いたので、マックでコーヒーブレイク。
十時半頃に現場に入る。もう興和産業の人たちが作業をしていてクレーンを組んでいた。しかし台座が予定の時刻をすぎてもこない。朝重君が電話してみたらまだ岐阜にあるという。午後六時から作業を再開することにして私は朝重君、宮本さんと長沢さんと四人で昼食を取る。
今回の設置場所は新宿の高級マンション。何でも黒川紀章の遺作だとか。
後はぶらぶらと一人でオペラハウスの「池田満寿夫展」をICCで見てから、下のレストランでSubtleNnifeを二時間近く読んで時間をつぶす。つぶすと言うより読みたくて仕方なかったのだが。
六時に現場に入り、ちょっと過ぎにはやっと台座が到着。しかし笠井さん達が渋滞に捕まって結局到着したのは七時過ぎ。作業は一時間ほどで終了した。黒の台座がかっこいい。写真を撮っていたが、しかし気がつくともう八時半、新幹線の仙台行最終が九時半なのであわてて東京駅へ向かい、駆け込んで仙台行きに乗った。
しかし時刻表を見ると毎週金曜日は特別に十時二十分というのがあるようだ。
夜中に仙台の実家に到着。ラーメンを作ってもらって食べて寝る。
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2月6日 "Bath"
それでも十時には起きて、ぼちぼちシーラントをもうワンコート塗ろうかなと思ってケイトのスタジオを暖めるが、被膜が十分そうだったので、さっそく梱包にとりかかり木箱を作って収める。道具も梱包して出発の準備が出来たのは四時。やっと昼飯だと食べていたら、ちょうどトラックが来て作品と荷物の積み込み、改めて食事をし直してスタジオを片づけ、後は風呂に入り直す。
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2月5日 "Broken"
部屋を暖めて「Moon Dance」にシーラントを塗る。乾燥するあいだ「window」の窓を少しずつ仕上げる。舟にも手をかけたが、まっぷたつになってしまった!。猿も木から落ちる、かな。割れてしまったが、二個とも作り直してタワーにでもしよう...。
送られてきたケイトの東五反田プロジェクトのステイトメントを日本語に訳して山田さんに送る。気を取り直して、新たに伊達冠で舟を作り直し始める。こんどは慎重に作業。
夕食のあと風呂にはいるが寝てしまった。寒くて目が覚めたらもう二時半。かれこれ二時間は入っていたことになる。それから布団の中で「Subtle Knife」を読んで結局寝たのは4時半だった。
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2月4日 "Moon Dance"
朝、ケイトと電話。久しぶりに長電話、いや、いつもかな。
西濃運輸のトラックがスタック、ユンボで引っ張る。雪の中に入って苦労した。ついでにたまった路面の雪を掻く。
やっと仕事に取りかかれたのは午後三時頃。
ケイト作品「Moon Dance」の補修。天面の磨き直し。ついでに正面も1500まで磨いてみるが、ケイトはどうやら800で仕上げているようなので、ペーパーで戻す。丁寧に洗って、明日の塗装に備える。アンカーのピンは大丈夫そうだったので替えないことにした。Windowにちょっとさわる。
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2月2日 "Phillipe Pullman
このところ,Phillip Pullmanを読んでいる。なんとか、Northern Lightを終えて、いまSubtle Knifeの中盤。彼の文は読みやすく、話もどんどん面白くなっている。最近、Northern Lightのほうが映画化されて。子どもたちが見たらしい。まあ原作とは違うと言っていたが、予告編を見る限り、本のイメージに近そうだ。
彼のサイトでFAQがあって、見てみたら、けっこうさらっと面白い。
http://www.philip-pullman.com/about_the_writing.asp
好きな方はどうぞ。
Pullmanがアタマ掻きながらこつこつと文章を組み立てて行く様子が偲ばれて、身の丈にあった感じでなにかほっとする。 イギリスはLord of the Ringから、このころ(?)のHarry Potterなど、こういった小説が面白い。
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