うきしま
西暦2006年(平成18年)
10月
10月15日 "London"![]() テムズ川にボートをこぎに行くけど見に来ないかという、ベンと一緒に、「ロンドン・ローリング・クラブ」に行く。ここはオリンピック選手でケンブリッジ大漕艇部コーチも務めたケイトのおじいさんが所属していた由緒あるクラブなのだ。
そこからタクシーで20分、友人のリチャードとキャロラインのところで昼食をご馳走になる。彼らとは去年も一緒に当時はやっていた回転寿司かなんか食べにいったのだ。食後の腹ごなしに、彼らのアパートメントの近くにある、ケンシントン・パークに散歩に出かけた。 目玉はなんと言っても「ダイアナ・モニュメント」。故ダイアナ王妃を偲んで設計制作されたこの素敵な水を使った彫刻モニュメント、白御影石を使いあちこちに造形的な遊びがあって、見ていて楽しいのだが、いろいろな表情を見せる水に誘われて子どもたちが水に入る。しかし、現在では水にはいるのは禁止されており、係員が巡回して注意してまわっている。 水を使ったこのモニュメントは枯れ葉がからんでで滑りやすくなり、子どもが転んで大怪我をしたりと事故が多いらしく、その結果周囲に柵が作られ、水の中にも入れなくなり、係員が嫌々ながら憎まれ役で、注意してまわるという結果になってしまったのだ。おかげで評判がとても悪くなってしまった。 私から見ても基本的な安全条件をクリアしていない箇所が多いように見える。傾斜のところがちょっと汚れるとすぐ滑りやすくなる危険性は今でも同じ。しかしこんなに豊富な水量を楽しげに使っていては、子どもは、いても立ってもいられない。どんなに寒かろうとすぐに水に手を出すものだ。 潮音も絵美理もリチャードたちの子どもたちも肌寒い空の下ながらも、びしょぬれになって(係員の目を盗みつつ)、遊び回っていた。
でも、休日の午後ともなると、すごい人の数。イギリスの子どもの遊び場は、クッションアスファルトの上にブランコとかシーソーがあるだけというのが多い。デザインは最悪。転んだら膝はすりむく。だから、こういう公園はとても珍しい。 子どもたちが遊んでいるのを見るのは楽しい。 |
10月12日 "Goodwood Sculpture Park and Roche Courta"![]() サウザンプトンの東にある「グッドウッド彫刻公園」で来年の仕事の打ち合わせ。ここは作家に作品を依頼して制作させ、それを海外のコレクターに売りまくっている、最近評判なところだ。 ロンドンから西に車で約一時間、有名な「グッドウッド競馬場」のすぐ隣にあるから、探すのは簡単だよとキースが言っていた割には、道に迷ってしまった。というのも、「グッドウッド博物館Good Wood Museum」というのがまたすぐ近くにあって、それかなと勘違いしてその標識通りに走っていったら、着いてみれば違うところ。彫刻公園は分からなくなってしまった。
展示作品は100点近くあるので全部見るのに二時間以上かかった。作品はすべて、ここの運営をしているカス財団の発注した作品で、イギリス国内外のコレクターに販売して、その売上をさらにまた次の作家の作品制作費に充てているのだ。そういった形で作家に作品制作と販売の機会を生み出している。 これまでのところ、二年から五年ぐらいのペースで作品が売れていくという。ヨーロッパ、アメリカが多いのだが、日本からも購入に来たらしい。 とりあえずケイトの作品のプランを今後詰めていくと言う事で、話がまとまり、公園を去る。 グッドウッドから車で約一時間、もう一つの評判のアートセンター、ロッシュコートに立ち寄る。 ここもコレクションを収集すると言うよりは、アートギャラリー的に作品の販売を目的としている。 日本の多くの彫刻公園がバブルの勢いに乗ったまま、しっかりしたコンセプトもなく中途半端な作品群を抱えて、立ち往生しているのを思い出すと、こういった商業主義は心地よい。 公共空間や美術館でない、一般の個人コレクターの庭に置く、作品をこういう風に次々と売りつけていくのは、作る側としては小気味よい。何しろ作家は作品を売って食べていかなければならないのだから。売れる売れないというのは作品の評価にもつながるものだろう。 僕も学生時代は、私の恩師の土屋先生の影響で、軽蔑的な意味を込めて「売り絵」と呼んで純文学的な作品至上主義を信奉し、商業行為を徹底的に排除していた時期があった。売る、売れるという要素が入ると作品が悪くなる、堕落するという認識のもと。 それでは、日本の多くの作家がどうして食べているかといえば、教職につき、常勤、非常勤講師として小中、高等学校で教える、または運がよければ、大学の講師や教授となる。それで俸禄をもらい、生活を安定させ、雑念を捨てて純粋に芸術活動に打ち込むというのが理想的な構図だった。 しかし、現実的には(たとえば仙台の例を見ると)、作家たちはみな先生や講師で食べている、団体展が作品発表の中心で、春秋の公募展などに出品する、という活動が制作の中心となる。食べる分には困らず、ただし、指導要綱を作る合間に、制作の時間さえ捻出すれば絵の一枚もかけるというものだ。そうなってくると、作品に真剣みが無くなり(こんな事を言うと大先生方から大目玉を、おしかりを受けそうだ)、同好会的、クラブ活動の延長的性格を帯びてしまう。作品なんかあってもなくてもどっちでもよくなる。 いまこうして一応プロとなって作品を売って生活していく身としては、明日をも知れぬ生活というのは、とても疲れるが、作品制作、芸術活動をする必然性に対する不断の問いかけとなり、作品の持つ意味合いが自ずと変わってくるのではないか。また、彫刻や立体作品の場合、現実空間との関わり、公共空間の芸術性、作品の公共性についての思考が不可欠となるため、机上の空論とはならない。 人間にとって芸術は不可欠なのだから。 |
うきしま
「新・浮島日記」
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